about

旗下山慈眼寺(きかざんじげんじ)は、1234年 文暦元年の鎌倉時代より続く秩父札所曹洞宗の寺院です。

その由縁は、東国遠征の折に立ち寄った日本武尊が御旗を建てたことで
この地に「旗の下」の名が付いたことに始まります。
西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所とともに日本百番観音に数えられており、
秩父市街の中心部にあり、5月に花まつり、7月にあめ薬師、12月には夜祭などが行われにぎわいます。

慈眼寺の歴史は古く、その始まりは鎌倉時代まで遡ります。
時の天皇は四条天皇、幕府将軍は藤原頼経でした。

令和6年秩父夜祭慈眼寺桟敷席

慈眼寺総年代記

  • 文暦元年(1234年)
    秩父札所が創設、本尊に聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を祀った小さな祠が慈眼寺の始まりです。「札所」とは、巡礼の証として、様々な思いや願いを込めた木札をお堂に打ち付け、納める場所でございました。
  • 文明18年(1486年)
    秩父市宮地の曹洞宗広見寺2世 東雄朔法を開山として迎え、慈眼寺が開かれます。
  • 江戸時代(1603年〜)
    江戸時代になり庶民の生活に余裕が生まれてくると、それまで一部の修行僧のみが行なっていた巡礼が庶民の間で一大ブームとなり、秩父札所は、多くの江戸庶民の観音信仰巡礼の聖地として大変賑わいました。
  • 寛延3年(1750年)
    江戸と距離の近い秩父は、道中に関所も無く気軽に巡礼が可能であったこともあり、総開帳の年の1月~3月には、4~5万人の参詣者があったとの記録が残っております。
  • 寛政の頃(1789年〜1801年)
    将軍徳川家斉の頃、慈眼寺は火事に遭い、記録によると間口7間・奥行き7間の大きな御堂は消失。しかし、江戸の地で寄進を募った全隆興道という人物の働きもあり、焼け落ちた御堂は無事再建されました。
    明治
  • 明治11年(1878年)
    再建から77年が経った明治11年、秩父市街約4万坪を焼き尽くした「秩父大火」によって御堂は再び焼失してしまいます。
  • 明治33年(1900年)
    秩父大火の被害は大きく、その後、一般的な御堂建築の倍以上22年もの年月をかけて現在の御堂が完成しました。周囲には見事な彫刻が施され、天井には当時の秩父を代表する日本画家 井上甲山の絵をご覧いただくことができます。
  • 現在
    西国三十三所・坂東三十三箇所と併せて「日本百観音」に数えられる「秩父三十四箇所※」。その第十三番目として、慈眼寺は秩父札所巡りをする多くの参拝者に親しまれております。

    ※秩父地方にある全34箇所の観音霊場の総称

住職のご挨拶

秩父札所十三番、旗下山慈眼寺のホームページをご覧いただきありがとうございます。
旗下山慈眼寺は日本百観音の1つであり、秩父34観音霊場の13番目の札所です。
慈眼寺には名前の由来になっている観音経の「慈眼寺衆生、福聚海無量」という言葉があります。

「観音様はいつも思いやりの眼をもって私たちを見てくださる。その観音様の心をもって生きれば、海のようにたくさんの福が集まる」という意味です。

慈眼寺の住職として、壇信徒の皆様、参拝にいらした皆様に 幸福が訪れるよう願い日々精進して参ります。

旗下山慈眼寺第二十一世住職
宮本 祥史(みやもと しょうし)

日本百観音の一つに数えられる旗下山慈眼寺は、秩父市街の中心部にあり、「秩父三十四箇所」の第十三番目として、秩父札所巡りをする多くの参拝者に親しまれております。
5月に花まつり、7月にあめ薬師、12月には夜祭などが行われにぎわいます。是非一度足をお運びくださいませ。

秩父札所十三番 旗下山慈眼寺

〒368-0042
埼玉県秩父市東町26-7
秩父鉄道「御花畑駅」から徒歩1分
西武鉄道「西武秩父駅」から徒歩5分

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